カトリックやユダヤ教徒にとって、祈りとは「式文」「祈祷文」を唱えることだと思います。カトリックには「カトリック祈祷書 祈りの友」という本があって、この中には、これこれこういう風な時にはこう祈りなさい、という定型が沢山あります。
プロテスタントには定型文がありません。各自、自由に、自分の言葉で祈ることが多いです。
なぜ祈らないといけないのでしょう?どんな祈りが良いのでしょう?祈りってクリスチャンの義務だと思っていませんか。祈りについて考えてみましょう。
ヘブライ語の祈り
ミトパレル:מתפלל
介入する、仲裁する、裁くという意味が語源になっています。
テフィラー:תְּפִלָּה
聖書に77回登場する言葉。自分で自分の心の中を探って、「神」と「自分」の関係を、どこか第三者的に見つめた上で、心を神の前に注ぎだす行為です。
アタル:עָתַר
これは取り成しを意味する言葉ですが、同じように「祈り」と訳されています。
出エジプト8:28でパロが、もう災害が起きないように祈ってくれというときには、このアタルが使われています。
バラク:בָרַךְ
もともと祝福する、跪くを意味します。
Ⅰ歴代誌4:10でヤベツが「イスラエルの神に呼ばわって言った。」とありますが、この呼ばわるというのも「祈る」という意味です。
また同じ言葉を「叫んだ」と訳しているのは、創世記41:43、45章で、エジプトに売られたヨセフが、兄弟たちに自分がヨセフだと告白する際に、感極まって人払いをするシーンで出てきます。
イエス様の祈り
イエスはルカ5章にあるように、寂しいところに一人行かれては、習慣的にお祈りの時間を取られていたようです。
マルコによる福音書にも、マタイによる福音書にも、ことあるごとに、ご自分だけで寂しいところへ行かれて祈られる姿が書かれています。
十字架に引き渡される直前、ゲツセマネの園で祈られた祈りがこれです。
そしてこう言われた。「アバ、父よ。あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることがおこなわれますように。
マルコ14:36
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
ルカ22:42
”信頼して何でもお祈りしていい、しかし自分の願いを押し通すのではなく、従順に従う”という、お手本のような祈りの態度です。
同時に、イエスでも不安や恐れがあったのだから、私たちだってそれを感じていいんだ、という慰めでもあります。
※続きはYOUTUBEでご覧ください。このメッセージは2021年11月のものです。
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