前回「イエスが伝えた3つのこと」のメッセージの中で、「従順のともなった信頼」が出てきました。今回は従順について、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
奴隷というたとえ
ローマ人への手紙6章には、「罪の奴隷」「従順の奴隷」という言葉が出て来ます。
あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。
ローマ人への手紙6:16
ここによると、人は自分が従うものの奴隷に例えられています。
それには2つの可能性があって、①罪に従って罪の奴隷となるか、②心から神とその教えに従って義の奴隷となるかのどちらかだというんです。
イエス様が身をもって「従う」ということを示されたことは、ピリピ人への手紙に書いてあります。
キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
ピリピ人への手紙2:5-8
神のご計画が、私たち自身の計画からそれているように見える時、私たちはどうするでしょうか?自分の計画通りの時は、従順な人、不従順の人、どちらも同じ反応をすると思います。
試練があった時が、実は大事な時なのです。
「無痛」を求める現代のクリスチャン
現代のクリスチャンは、私も含めて「キリストのために苦しむ」ということが良く分かっていません。最初期のクリスチャンたちは、「キリストを信じることは、苦しみを伴うことだ」と理解していました。
唯一、宗教改革時代に起きたアナバプテスト(再浸礼派)という教派は、初代クリスチャンに最も近い考え方でした。
『教会の頭、イエスが苦しみを受けたとしたら、私たち主の僕、子ども達が平和や自由を謳歌しようと期待するだろうか』と考えていたんですね。(アナバプテストの影響を受けた沢山の教派があります。アーミッシュ、メノナイト、兄弟団、ダンカー派等など)
※続きはYOUTUBEの動画でご覧ください。このメッセージは2021年10月に作成しました。
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